四季・奈津子

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四季・奈津子』(しき なつこ)は、五木寛之長編連作「四季シリーズ」第一作[1]。またそれを原作とする映画テレビドラマ[2]

概要[編集]

集英社キャリアウーマン向け[3]ファッション雑誌MORE』1977年の創刊と同時に同誌に1979年まで連載され[1]、同年11月に単行本になった[4]。映画公開時には100万部を超えるベストセラーになっていた[5]。同シリーズは、四季を冠した名を持つ4人姉妹「奈津子」「波留子」「布由子」「亜紀子」の愛の四重奏を描き、『四季・奈津子』以降、断続的に連載が続き、2000年連載の『四季・亜紀子』で、執筆開始から23年後にシリーズとして完結した[1][6]

『四季・奈津子』執筆動機として五木寛之は「働く女性が増加し、女性の社会進出が目立つようになった時代を背景に、男にうじうじくっつかず、自立した女性の冒険小説を書いてみようと思った」と話し[7]、シリーズ全体については「四人姉妹の流れを追いながら、ニッポンの23年間の変化を織り込んでいけたらと考えた」と話している[1]

ストーリー[編集]

映画[編集]

四季・奈津子
監督 東陽一
脚本 五木寛之
製作 吉田達前田勝弘
出演者 烏丸せつこ
佳那晃子
影山仁美
本田博太郎
風間杜夫
田村隆一
阿木燿子
藤田敏八
音楽 田中未知
主題歌 チェリッシュ「四季・奈津子」
撮影 川上皓市
編集 市原啓子
制作会社 幻燈社
東映
配給 東映洋画
公開 1980年9月6日
上映時間 120分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 4億円[8]
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『四季・奈津子』(しき なつこ)は、五木寛之の同名小説を映画化した1980年日本恋愛映画[2]烏丸せつこ主演、東陽一監督。幻燈社・東映洋画製作[9]、東映洋画配給[9]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

音楽[編集]

主題歌「四季・奈津子

製作[編集]

企画は東映プロデューサー・吉田達[4][12][13]。吉田は東陽一監督が1979年に『もう頬づえはつかない』を低予算で製作しながら大ヒットさせた手腕に感心し[14]、東監督の制作プロ・幻燈社の前田勝弘プロデューサーに東映セントラルフィルムの基本製作費3000万円で映画を作ってもらおうと考えた[4]。吉田はエロと暴力イメージの東映を改革したいと望んだ[13]。1970年代後半、日本映画は角川映画などの大作映画やアニメーション映画がプログラムに乗ることが増え、また角川の影響で宣伝費が高騰し[15]、製作費の10~20%が適当といわれた映画の宣伝費が製作費と同額といわれるまで跳ね上がり[15]、元々、金のかかる映画事業がさらにバクチ性を増し企画も臆病になった[15]。そこで目を付けられたのが女性映画だった[15]。日本映画に於いていかに宣伝に努力しても掴み辛いと言われたのが女性層で[15][16]、1970年代のヤクザやエロ、アニメに侵された日本映画を女性は敬遠し劇場に足を運ぶ状況にはなかったが[15][16]、大作が大半の外国映画では『アニー・ホール』や『ミスター・グッドバーを探して』『結婚しない女』などの女性映画に女性層が劇場に足を運んでいた[15][16][17]

『四季・奈津子』の単行本が1979年11月に発売されると凄い売れ行きで、吉田が映画化権を取りに行ったら、既に松竹が先行していて、発売元の集英社から「東映の映画としては不向きだ」と言われた[4]。これは五木寛之を直接口説くしかないと判断し、五木に会ったら「監督は誰ですか?」と聞かれたため、まだ監督は未確定だったが「『もう頬づえはつかない』の東陽一監督でやろうと思っています」とポロっと言ったら「いいでしょう」とOKが出た[4]。しかし企画を会社に提出したら岡田茂東映社長以下、誰からも賛成を得られなかった[4]。諦めかけたら当時の洋画配給部の部長で取締役営業部長でもあった鈴木常承が「三億円ぐらいで出来ないか?」と言われ、「やろうと思えば出来ますよ」と答えると「アラン・ドロンの(買付け)映画が一本三億円ぐらいだから、それを一本買ったと思ってやろうじゃないか」と言われ、東映としても女性ファンの開拓の意味もあり製作が決まった[4][18][19]。岡田社長は「『四季・奈津子』は、昔だったら手を出す企画じゃない。それを洋画系で封切れば十分商売になる、そう踏んだから手を出した。こういう多彩な色々な経験が東映を時代の流れに乗せてゆくことに繋がってゆくわけです。これはお客が刻々変わって来ているということです。お客のニーズが変わっているのに昔来たお客のことを考えてモノを作っていたらナンセンスです。来ないのが当然です。だから東映もこれまで考えられなかったことを平然としてやるわけです。ヤングの気持ちの流れを掴みとるのが非常に難しい」などと話した[20]。松竹以外も各社映画化権を巡り争奪戦があったとされるため[10]、同時期に東映で同じ五木原作の『青春の門』のシリーズ化が決定した背景もあったかもしれない[21]。東映洋画は角川映画や「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の興行が大成功し[22]、本来の主業務である洋画買付けは、洋画の原価高でリスキーになり[22]、4、5年まともにやってなかった[22][23]。東映洋画の映画製作は本作が初めて[18]

製作方法[編集]

幻燈社は、1977年に東陽一監督とと前田勝弘プロデューサーが作った映画の制作委託、下請け会社[4][24]、前田は東映からの提案に戸惑った[9]。東陽一は原作を読み、最初は乗り気でなかったが[9]、東映の吉田と前田がやる気満々で「メジャーだろうがマイナーだろうが観客には関係ない、新しい勉強も出来るかも知れない」と監督を引き受けた[4][9]。東監督は女性映画の名手といわれた人だが[25]、公開時のインタビューで「同じ傾向の映画のオファーが続いて、本当は女の映画なんかうんざりだったが『もう頬づえはつかない』の企画書に書いた、日本映画をなぜ日本の若い女性たちは見ないのかを分析し、アラン・ドロンの映画しか見ないとかいう女の子たちに、もう一度、日本映画を見せたい、今の若い男の子はつまらないので題材にしたくない、女は感性で生きていて話すことと行動は矛盾していても、総体が生々しい生き方をして感動もするから女性映画といわれるものを二本続けて撮った」などと話していた[4]。東は初めての商業路線進出[26]

東映セントラルフィルムは製作費3000万円をそのまま制作集団に渡し、自由に撮らせるという形が岡田社長の方針だった[4][27]。東映が製作費をまるまる負担すると、映画がコケても借金を負わないで済むためリスクは小さいが、逆にヒットした時は儲けがあまり入ってこない上、版権は東映が保有するため二次使用、三次使用での利益が少ない[4]。当時は二次使用がまだ余りクローズアップされていなかったが[9]、幻燈社は経済的リスクを背負う東映との共同製作を選んだ[4][9](出資比率は不明)。本作の製作費がいくらかはっきり書かれたものがないため、製作費はいくらか分からないが、東映が1億2000万円を負担したとされ[4]、東映と幻燈社の両方出資のパーセンテージが組まれ(出資比率は不明)、本作が製作された[9]。東映サイドとしては両方出資であるため、スタッフ編成の口出しも可能で、監督の東とプロデューサーの吉田達、前田勝弘以外のスタッフ、撮影所使用などを東映で固めることも出来たが[4]、幻燈社も出資する代わりに気心知れた『サード』と『もう頬づえはつかない』の同じスタッフ・ワークで、基本的には幻燈社が製作を引き受けて映画を完成させたいと提案し、これが東映に了承された[4]

幻燈社は毎年、この作品を撮ったら解散しよう、やりたい物が出たときに集まって集団を組もうというのが最初からの考えで、1本やったら終わりという考え方だった[9]。 ところが本作が大ヒットし、幻燈社に4~5000万円の利益が出た[9]税金を払うのは業腹だから、もう1本やろうとなり、年々止められなくなったという[9]。幻燈社は二作目までATGと組んでいたが、東映と製作費を持ち寄って製作した本作の成功で、下請けでもなく、才能を買われただけでもなく、自分たちの頑張れる表現の領域があることを見出し、その後の映画製作を続けることになった[9]

製作会見[編集]

製作発表は1980年3月17日に東映本社8階会議室で、岡田東映社長、五木寛之、東陽一らの出席で行われた[28]。席上、岡田社長が「製作・配給の構造変化に伴い、時代に則して洋画配給部が初めて自主製作に取り組む作品で、五木氏にはゼネラル・プロデューサーと音楽プロデューサーをやってもらう。今年の東映は大いに変わるという、これはその第一作だ」と話した[10][28]。また、製作費2億円は全額洋画配給部が出資し、幻燈社が製作協力、公開は1980年の秋と発表されたが[28]、前述のように製作費は東映と幻燈社が共同出資、製作もこの後の話し合いで共同に変更になったものと見られる[9]。その他、四姉妹とK役を1980年4月17日締切で一般公募すると発表され、東監督より「原作それ自体がシナリオという考え方でシナリオ化(脚色)作業は行われない」と説明があった[28]

キャスティング[編集]

四姉妹のオーディションの最終選考は1980年4月25日[29]。四人姉妹役を全員、プロアマ問わず公募してオーディションが行われ、9000人[5]9500人の中から[30]、奈津子・烏丸せつこ、波留子・佳那晃子、亜紀子・影山仁美、布由子・太田光子が選ばれた[5][19]。四人姉妹の役はそれぞれ本人の希望する役を選び、個別にオーディションが行われた[31]。二女・奈津子役は出演の条件としてフルヌードがあったとされるが[32]、これを拒否する者はいなかったという[32]

オーディション終了後、報道陣へのお披露目を含めた製作会見が改めて1980年5月12日、帝国ホテルで行われ、岡田東映社長、五木寛之、東陽一とオーディションで選ばれた四姉妹、Kを演じる阿木燿子らが出席[33][34]。岡田社長は「配収目標は5億円」と話し、五木は「応募者は自分で役を選んで主張を持って参加してくれたことを嬉しく思う。同時に時代が変わったんだなと感じた。選ぶ我々の方が緊張した」と話した[34]

烏丸のクラリオンガールとしてのCMがテレビ放映されたのは1979年10月で[35]、それまでは全くの無名だったが[35]豊かなバストレイで隠したクラリオンのCMが大きな反響を呼び[36][37]、当時の男性誌のグラビアによく取り上げられかなり人気が出ていた[5][37][38]野田義治巨乳を売り出す発想は烏丸のポスターを見て思いついたと話している[36][37]。また騒がれる前に『テン』のプロモーションで来日したボー・デレク伊豆大沢温泉で撮った全裸写真(撮影はジョン・デレク)が『PLAYBOY国際版』に掲載され[37]、これも騒ぎになった[35][37]。国際版だから家族は見ないだろうと気軽に承諾したが、掲載写真は烏丸を温泉場湯女扱いしていた[35]。烏丸は元々、高校時代から名古屋の東京新社俳優養成所に通う女優志望ではあったが[31][39]、レッスンには4、5回しか行かなかったと話しており[31]、クラリオンガールに選ばれる前にもNHK朝ドラ鮎のうた』や『太陽を盗んだ男』の最終選考まで残っていたが[38][39][40]、演技はほぼ素人であった[31]。意外に下積みが長く[35]、クラリオンガール応募の条件は22歳以下だったが、2歳鯖を読み、選ばれたときは実際は24歳だった[39][41]。東映のパンフレットプロフィールの記載でマスメディアにも年齢詐称がバレた[41]。クラリオンガールの応募者は1827人[35]チョイ役の『海潮音』に次いで映画は二作目だったが[5]、本作が先に公開された[5]。烏丸は五木作品について「読んでる分には面白いし、いろいろ連想もさせてくれるところあるのに、成功した映画化作品がない。この作家のものほど、映画化が難しいのはないのでないか」と東に話したと言い[4]、東は「有名になりたいとはっきり言う子がとても好き。僕らの世代は本当はそう思っていても口に出せなかったけど、その点、烏丸さんは適役だと思う」と主役抜擢を決めた[4]。烏丸は当時の雑誌インタビューで「作品が好きで応募したわけではない。映画をやりたいから応募した」と話した[35]

三女・亜紀子役の影山仁美はテレビドラマには出ていた[5]。影山の撮影は2日間で出番が少なく不満を述べた[31]。四女・布由子役の太田光子は演技は素人の大阪の名門私立に通う現役高校二年生[5]。自由な女・K役もオーディションで決める予定だったが[42]、五木や東のイメージと合う女優が見つからず、五木と東が審査員だった第一回ニッポン放送青春文芸賞のパーティに来ていた阿木燿子を見て、東と五木が「あ、Kじゃないか、あれは!」と異口同音に叫んで口説き落としたとされる[5][43]。阿木は美人の大ヒット作詞家として有名だったが[42][43]、顔はあまり知られていなかったとされるが[42]、映画関係者は「阿木を知らなかったなんてことはないはず。既に決まっていたのにパーティ云々で色付けしたのだろう」と皮肉られた[42]宇崎竜童は、阿木に「どうしようかなぁ?と相談を受けたが、どうせもう決めてんだろ!」と出演を承諾したと話している[44]。人気作詞家が女優デビューし、しかもヌードになるのは初めてのケースでマスメディアも大きく取り上げた[42][43][45]。阿木は「人生の転機としてやります。丁度、今エネルギーが爆発する時期ですから」と決意を述べたが、スポーツ紙で全裸シーンがあると大きく報道され[42]、ナーバスな性格で取材拒否が敷かれた[42]。東は阿木や詩人田村隆一の起用について「今の日本の俳優の演技はどうも嘘っぽくてね。決局、俳優自身の人間性に重みがないと劇中の人物に奥行きが出てこない。今の日本映画はかつての様式美の時代が終わったというのにまだ現実を見つめることすら始めていない。俳優の演技の問題もその現れです」という考えからの起用と話した[46]。「ぼくにとっては、俳優さんてのは存在しないんでね、プロとか素人とか決められない。人生のプロなら俳優をやれると思う。日本映画はぼくも含めて監督も、カメラマンも、役者もまだダメだと思う。どこかで固定観念を壊さなきゃいけない。人間は経験に対する決まりきった回答が出てくるでしょう。それが恐い。要するに手慣れた仕事になってくるのが嫌いなんで、そういう意味じゃぼくはプロの監督じゃないかもしれません。見方によればかなりチャランポランな撮り方かもしれませんが」などと話した[31]

映画監督の役で出演の映画評論家白井佳夫は、心臓発作で入院した伊丹十三代役[47]。東監督が白井と親しいことからの抜擢[47]。白井の映画出演は『蜘蛛巣城』『黄金の犬』に次いで三度目だが[47]、『黄金の犬』では雑誌で酷評し監督と疎遠になった[47]。東から「作品を褒めてくれなくていい」と言われ出演を承諾した[47]

撮影[編集]

監督の東は、当時の小説が映像的、視覚的イメージを喚起するものが多く、分かる安い話を分かりやすいシナリオにして、きちんと演出するのでは面白味がないと考えた[5]。このため話題作りでなく、自分自身の対しての仕掛け、落とし穴を作って"さあ、どうするの、お前!"みたいなところへ追い込まれていきたいと新しい演出にトライするという意図で、脚本なしの演出を試みた[5][48]。当時の文献には台本のない初の映画と書かれたものがある[49]。脚本はないがシーン・ナンバーを記した構成台本と大雑把なメモ程度の演出ノートはあり[5]、五木の原作上下二巻を助監督がいつも持ち歩き、何ページの何シーンを何日目に撮るよ、とスタッフ・キャストの事前に知らせるといういう演出法[48]。ダイアログライター(セリフ作家)として、撮影当時20歳の粕谷日出美を起用[48]。粕谷は「無力の王」で1980年の第一回ニッポン放送青春文芸賞グランプリを受賞し、同賞の審査員だった東と五木に才能を評価されての抜擢だった[5][31]。セリフは原作にこだわらずに、粕谷が書いてくるセリフを前日の晩に東が推敲し[31][48]、翌日さらに撮影現場で、粕谷を現場におき、シーンごとに感性に富んだセリフを出演者の意見も取り入れながら、その場で作らせる斬新な手法を取った[5][31][48][50]。烏丸は「東監督にはとにかく芝居をするなと言われた。不思議な現場だった」と話している[37]。東監督は「ぼくにとっては、俳優さんてのは存在しないんでね、プロとか素人とか決められない。人生のプロなら俳優をやれると思う。日本映画はぼくも含めて監督も、カメラマンも、役者もまだダメだと思う。どこかで固定観念を壊さなきゃいけない。人間は経験に対する決まりきった回答が出てくるでしょう。それが恐い。要するに手慣れた仕事になってくるのが嫌いなんで、そういう意味じゃぼくはプロの監督じゃないかもしれません。見方によればかなりチャランポランな撮り方かもしれませんが」などと説明した[31]。このためか通常の映画の5倍もフィルムを回し[46]、東映が激怒し、東は「ATGの2000万円映画でも普通の4倍回すんだ」と言い返し揉めた[46]

撮影記録[編集]

1980年5月23日クランクイン[49]。この日、東京駅赤坂練馬の三ヶ所の都内ロケ[49]。1980年6月9日から福岡ロケ[43]福岡空港[43]飯塚郊外他[43]

宣伝[編集]

1977年の合作『ザ・ディープ』の日本公開の際、当時日本で人気の高かったジャクリーン・ビセットの濡れたTシャツ写真を前面に押し出すプロモーション展開がなされたが[51]、これをマネて、好奇心旺盛な奈津子のイメージを烏丸せつこの濡れたTシャツから透けて見える豊満なバストをキービジュアルに押し出した[2][37][45][52]。この濡れたTシャツポスターは山手線車内広告などにも使われた[37]。これが大きな反響を呼び、スポーツ紙や男性誌から烏丸への取材が殺到した[45]。原作の話題性にプラス、烏丸と阿木燿子の豊満なバストの競演は大きな話題を呼んだ[53]

1980年8月15日、東京銀座ヤマハホールで特別試写会が催された[54]。烏丸、阿木のヌードシーン他、二人のレズシーンもあり、映写中にそれらのシーンでカメラをパチパチやられては困るため、試写会案内状にカメラ持ち込み禁止が書き添えられ、入場者のボディチェックを行う前代未聞の試写会であった[55]。しかし全く効き目がなく、カメラのパチパチがあり一悶着した[54]。試写終了後は並びの東芝銀座セブン8階で記者会見が行われ、質疑応答を予定していたが、記者から映画の内容についての質問はほとんどなく、「ヌード宣伝について神経質過ぎ」などと烏丸と阿木のヌードに関する話ばかりに終始し、東が憮然とする形で終わった[54]

興行[編集]

本作は1980年3月の製作発表時に1980年秋に、丸の内東映パレスなど東映洋画系で公開予定と発表され[28]、1980年夏の早い段階では、東映洋画系夏興行の『ヤマトよ永遠に』の秋まで続映の後、1980年9月中旬から全国ロードショーを予定していた[11]。また岡田東映社長が1980年1月に東急レクリエーション(以下、東急レク)社長に就任し、東急レクの番組編成を差配できるようになったため[56]、東映作品を松竹と組む洋画系STチェーンでの拡大公開が可能となり[56]、『ヤマトよ永遠に』は東急レックス系の新宿東急などでも拡大公開された[57]。東映洋画系も東急レックス系も『ヤマトよ永遠に』の後は空いていた[11]。この年の邦画秋興行は、例年になく大作映画がなく[11]、低予算映画が目立ち『四季・奈津子』は秋の注目作であったが[18]TBSテレビドラマを夏から始めたいと言ってきた[58]。東映洋画系も東急レックス系も『ヤマトよ永遠に』が秋までの続映で[11]、東映本番線も社運を賭けた超大作『二百三高地』が秋まで続映で[59][57]、その後は秋のメイン作として『野獣死すべし』『ニッポン警視庁の恥といわれた二人 刑事珍道中』の二本立てが、角川映画として初めて本番線に乗ることが決まっていて[11][18]、『四季・奈津子』を掛ける劇場が無く[10][11]、興行を東宝に頼んでいた[10]。東映とTBSで折衝が行われ[58]、東映は最初は話題性も十分で、本作の興行の絶対の自信から、映画とテレビドラマを同時でも構わないと強気の姿勢を見せたが[10]、東宝から「金を払って劇場に来てくれるお客に失礼」と「同時公開はNO!」と拒否されてしまった[10]。仕方なくTBSにテレビドラマをギリギリまで後ろに下げてもらい映画を先に公開することになった[11][58]、東京都内は1980年9月6日から、有楽町ニュー東宝シネマ1で上映された[57]東映シネマサーキット(TCC) 新宿東映ホールと上板東映は『狂い咲きサンダーロード』を上映[57][60][61]、その他地方館等、詳細は不明)。文献により、東京だけ先行RSが行われたと書かれたものもある[11]。『四季・奈津子』は最も東映らしくない映画と映画関係者からいわれ[11]、作品の雰囲気が東宝が一番合っているという見方をされた[18]。この時代はテレビドラマ→映画もなくはなかったが[11]、普通は映画→テレビドラマの順番だった[11]。結果的に映画の公開中にテレビドラマが始まり[11]、このようなケースは初めてといわれた[11]。映画関係者は無料のテレビが勝つのか、有料の映画が勝つのかという見方をし[11]、東映も前例がないだけにテレビ放映による相乗効果が映画にどの程度影響を与えるのか読み切れなかった[11]。また東映洋画が東宝に興行を頼むと社外的には、東映の中に別会社が出来るのではと見られた[11]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

配収4億円[8]

作品評[編集]

  • 出演もする白井佳夫は「一見映像的な要素に富んでいるように見えるが、五木小説のロマンの世界というのは、実は映像化が難しい。現実の風土や生身の俳優の肉体を使って撮る画面のイメージが原作の映像的文体で緻密に描かれたイメージの世界を裏切るからである。そこで東監督は、主要人物の四人姉妹にオーディションで新人たちを起用し、シナリオなしの即興的撮影中心の試みを行った。ロマンティックなドキュメンタリー調の映像ドラマのような自由な構成の作品を狙ったわけだ。結果はエンターテインメント映画としてはドラマティックな面白さには少々欠けるが、ヌードの美しいエネルギッシュな新人烏丸せつこ自身が、九州から東京に出て来て映画スターになるまでの映像ドキュメンタリーみたいな奇妙な魅力を持ったフィルムができあがった。映像的見せ場のスペクタクル演出(?)は、東監督ならではのものと言っていいだろう。だが同じ岩波映画出身の羽仁進監督『アフリカ物語』同様、ドラマ的部分とドキュメンタリー的部分の接合が弱いのが共通の弱点といえる」などと論じている[26]
  • 映画時報は「烏丸せつこは最近の発見であった。プロポーションのよさもさることながら、稚さを残したファニーフェースといい、やや硬いセリフまわしといい、この作のヒロインにぴったりだ。オーディションでの難作業も、彼女一人を発見したことによって十二分に報われた。日本映画もこのオーディション方式が定着したといえよう。題材や製作スタッフの魅力もあるが、これからはこうした方法によって新人が掘り出されそうだ」などと評した[30]
  • 内海陽子は「烏丸せつこという女優は単純に嫌いだ。彼女の声を聞き、横顔を見た瞬間、ダメだと思った。果たしてこの映画についていけるだろうか、そんな思いで途方に暮れた。彼女に群がる男たちはすべてアホに見えてくる。こんな女に構っているヒマがあったら、男たるもの、もっと他にすべきことがありそうなもんじゃないか…なんと詩人田村隆一氏などは実名で登場なさって彼女のお相手をする。ああ、男の気持ちなんて金輪際分からんと思った。しかし役者としてはズブの素人である田村氏を起用したところで、映画はこのひとりの女に対する視線を明確にする。新幹線の車中で語らう二人を見ていてゾッとしない女性観客がいるだろうか。何の演技も付けられずほっぽり出された烏丸のみっともなさをどうだ、こういう女の子に我々は付き合っていくのですという太々しい声が聞こえてくるではないか。私はショックを受けたと同時にこの奇妙な太々しさにスリリングなものを感じ始めた。この映画はスリリングである、何の計画性もなく、女としての本能(欲望)のままに行動する一人の娘に、数人の男たちを絡ませて、東陽一はただひたすらに、男の女に対する視線を描くのである。"恋する男たちの女好きな男たちの"視線。その対象としてのみ、彼女は存在している。女に対する男の柔らかい眼、だらしない眼、気弱な眼、冷たい眼、それらが重なり合ってこの映画を支えている。そこに私は動揺を覚える。不自然な演技付けを排した演出の基に、東陽一が辿り着いたのは彼自身の眼であり、思えば最初から彼自身の眼を語っていたのではないかと思えた。大勢の男たちの曖昧な眼に愛されて美しくなった一人の娘に、私は素直に感動した。そこに世の様々な"ヒロイン"と呼ばれる存在の見事な典型を見て、甘酸っぱい気持ちになる。男の視線の魅惑(哀れ)に満ちた映画である」などと論じた[62]

受賞歴[編集]

第54回キネマ旬報賞

  • 日本映画ベスト・テン第7位

第5回報知映画賞[63]

第2回ヨコハマ映画祭[64]

逸話[編集]

  • 東映が烏丸の裸ばかりを売るプロモーションを展開したため[65]、烏丸がヘソを曲げ「もう東映には出たくない」とヒロイン役での出演が決まっていた深作欣二監督の『海燕ジョーの奇跡』を降板[65](結局、企画自体が流れた)。東映は「思いあがりもはなはだしい」と烏丸に激怒した[65]

影響[編集]

  • 特異な演出法で気の毒ではあったが、阿木燿子の下手な芝居は物まね番組のネタにされた[66]。それらを含め、"作詞家女優"として阿木が話題を集めたため、モデル出身の美人作詞家として知られた浅野裕子が『スローなブギにしてくれ』にキャスティングされた[66]
  • 本作公開半年後の1981年3月25日に三和銀行オンライン詐欺事件が発生し、実録映画本尊である東映の吉田達プロデューサーが[67][68]、本作で幻燈社と付き合いが生まれたことから映画化を同社に持ち掛けた[67][68]。幻燈社も同じ企画を進めていたため、岡田東映社長に企画が提出され[67]、事件を起こした女性行員が美人だったことから[67]、本人主演を条件にOKが出た[67]公判ルポと女性行員の家族に取材した江森陽弘の著書『愛の罪をつぐないます』に女性行員が好感を持ったため、東映がこの映画化権を獲得し、本人の出演OKの承諾も取れたが[67]、映画化されなかった。またにっかつも映画化を企画していた[68]

テレビドラマ[編集]

四季・奈津子
ジャンル テレビドラマ
脚本 山田信夫宮内婦貴子
監督 恩地日出夫降旗康男日高武治斎藤光正
出演者 池上季実子大谷直子吉村彩子真行寺君枝小野寺昭高岡健二中条静夫星正人
製作
制作 TBS
放送
放送国・地域 日本の旗 日本
放送期間 1980年9月26日 - 1980年10月31日
放送時間 金曜日21:00 - 21:55
放送枠 TBS金曜9時枠の連続ドラマ
放送分 55分
回数 6

本作を原作に、同じ『四季・奈津子』のタイトルで、1980年9月26日から1980年10月31日までTBS系列毎週金曜日21時〜21時55分の枠で放送。全6回。

当初は映画より先に放送も計画されたが、東映が泣きを入れて映画の封切り後に放送開始になった[58]。第一回放送時にはまだ映画が公開中だった[57]。先行した映画版が烏丸せつこと売れっ子作詞家・阿木燿子の大胆ヌードで大きな話題を呼んでいたため、良いプロモーションになった[58]

映画版で阿木燿子が演じたケイ役は、「私がケイのモデル」と自称するシャンソン歌手で舞台女優の堀内美紀[70][71]。堀内は脱がないことを条件に出演を承諾した[70]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

TBS 金曜21時台
前番組 番組名 次番組
四季・奈津子

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “『四季シリーズ』最終章『亜紀子』を上梓 五木寛之氏インタビュー 四姉妹の生き方からニッポンの23年を描く”. 中日新聞夕刊 (中日新聞社): p. 13. (2000年11月17日) 
  2. ^ a b c d 四季・奈津子”. 日本映画製作者連盟. 2019年7月14日閲覧。
  3. ^ 「邦画新作情報」『キネマ旬報1980年昭和55年)4月下旬号、キネマ旬報社、1980年、 186頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 東陽一・吉田達・前田勝弘・林冬子「特集・座談会『異なるフィルターが集まり一生懸命ぎくしゃくした中から生まれた『四季・奈津子』」『キネマ旬報1980年昭和55年)9月下旬号、キネマ旬報社、1980年、 58–62頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 南俊子「特集3『ヒロインの心臓の鼓動がきこえてくる…」『キネマ旬報1980年昭和55年)9月下旬号、キネマ旬報社、1980年、 66–67頁。
  6. ^ ポプラ文学(「い」1−7)四季・亜紀子
  7. ^ 70歳の日本、下山の思想 五木寛之「親鸞」
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参考文献[編集]

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  • 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。 ISBN 9784636885194
  • 『東映の軌跡』東映株式会社総務部社史編纂、東映株式会社、2016年3月。

外部リンク[編集]